自然の生命(いのち)の力 resilience

精神科病院で働いています。診療情報管理士通教84期。五感を癒して自然治癒力を高めるセラピーについても関心があります。一人旅が好きなので、旅のことも、時折書きたいと思います。ICD10リスト&要約ブログ作成開始。http://sizen.upper.jp/icd-10/

海に寄せて

私の意識はうまくコントロールされないままに、いつも不可解な軌道を描きながら在る。

いつだったか、もう随分前に、一人、旅に出て夜の海を眺めた。波の形は風を受けて常に変幻しており、海にはさだまった形がなく、どこからどこまでが海なのかさえ、定義することが難しい。特に夜の闇の中、銀色の常夜燈にぼんやりと映しだされる海面は、それ自体が巨大ないきもののようであり、あるいは漆黒の中破裂したバラバラの大地の涙のようでもあった。そしてその幻惑の中にあっても、私は目の前のそのとらえどころのない”それ”を、”海である”と思うのである。

 私は、私自身のdyscontrolな情動を、その形を、困惑のままに手探りで、つかもうとする。 特に夜においては、様々な記憶の断片をともなって、さらに精神は混迷を深めていく。私は統合されない感情と記憶のコラージュのようであり、目眩のように、自分自身を獲得しようとしては敗北していく。海に対して「あなたは本当に海なのか、どこまでが海なのか、どのような波や海面が本当の海の姿なのか…」と、問いかけることは無意味であるとわかるのに、私は私の情動への固着から逃れられない。自分自身にある意識…受容的なもの、排他的なもの、優しいもの、残酷なもの、…どこから来てどこへ行くのかさだかでない私の意識が夜闇に駆けていく。 私とはどのようないきもので、何者なのか?わからない。困惑の連続のような私の性質は、私が希求する生き様から遠くかけ離れている。強くなりきれない、明るくなりきれない、混迷を脱しきれない、自分を、その定まらない、姿を捉えきれない私自身を、それでも私は”私である”と思う…。

やすらぎは、凪のように、限られた時、神秘の雰囲気で、偶然のように、そして繰り返し訪れる。開け放つ窓からやわらかい風がそそぎこむ瞬間に。聴いたこともない愛らしい声の鳥達が歌う時に。漆黒の夜空で美しい月や星々と出会う時に。優しい人たちが手を差し伸べてくれた時に。私の情動はまるで新たに誕生したかのように初々しく穏やかになり、愛と神秘を感じうる姿になる。その一瞬のやすらぎの中でついた深い呼吸が、生命と日々の糧になる。

ある患者の子息が亡くなった時、その一報を受けた後、彼女は私の膝にとりすがり、はっきりとした目で私を見据え、「うそよ」と叫んだ。もう何年も、精神症状が著しく、会話のできない女性だった。私は彼女のはっきりとした発話に驚き、その後、咄嗟に彼女の手を取った。その瞬間、私は自分の瞳から涙がこぼれるのに気がついた。彼女は私の涙に気がつくと、冷酷な表情で私をなぎ払い、「やめてよ」と言い、昏睡するようにベッドに潜り込んだ。あの時の私の涙は、彼女に、彼女の子息の死を現実たらしめてしまったのだろう。私は泣くべきでは無かった。私はなぜ泣いたのだろう?それは彼女の長期に渡る精神混迷が、本人の無意識の防衛によって起こっていたことを、はっきりと認識したからではないかと思う。彼女は現実を受け入れることができず、精神混迷という小部屋に自ら長く閉鎖して人生を保ってきたのだ。しかし、子息の死という強烈なノックの音で、部屋から飛び出した。そこには、自分のことで涙を流す他者が居た。彼女はその現実に耐え切れず、再び部屋に、きつくきつく閉じこもった。そしてそれ以降、彼女は二度と、その心の小部屋から出ることは無かった。

斯様に、意識は肉体より強く自我を束縛する。つまりあるいは、意識は肉体や物質さえも時に救済するのだろう。

私は私の意識を、自我を縛り付けるものから、自我を開放し救済へ働くものへと変化させていきたい。私は、もっと知りたいと思う。森羅万象の心と意識の在り様を。混迷のままにもがく今の意識から脱却し、しなやかに他者と結びつく自分になれたなら。

そして、夜は明日へ神秘の予感を秘め、いつも美しい。