感謝を知った時の話
私は以前まで、このように思っていた。
努力をすれば全ては変わっていくことができるし、失ったものは必ず取り戻すことができるし、願い続ければ叶わないことはないのだと。
しかし立て続けに起きた肉親の死が私のその考えを大きく覆すことになった。
そしてその経験に、今はとても感謝している。
今夜はその経験と、そこから感じたことを書いてみたいと思う。
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私には幼い頃からの夢があった。
笑われそうな話だが、「いつか家族みんなで楽しく食卓を囲みたい」という夢だった。我家にはそのような心おきない家族団欒の場面が無かったからずっと願い続けていた。
そしてその願いは、必ず叶うと信じていた。
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しかしその夢の叶わぬままに、続けて肉親がなくなり、
悲しみのあまりか私はその頃の前後数年間の記憶がところどころバラバラに抜け落ちている。
ただ覚えているのは、死後1週間程は、「どうか帰ってきて欲しい、もう一度話がしたい」と泣いていたこと。
そしてその悲しみの嵐の過ぎた後、
「もう決して戻ることはない。家族団欒の夢も、叶うことはない」とはっきりと思い知った、あの瞬間の自分の心である。
あの瞬間、私は新しい人生の一歩を踏み出した。
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世界は、叶わないこと、戻らないことに満ちている。
そしてそれを知ることこそが、人生を感謝に導く鍵なのだと思った。
あの痛烈な体験は、私に感謝の心を刻みつけてくれた。
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死別後の数年、私は強烈な後悔と自責の念にとらわれ、
その暗いトンネルをもがきながら抜け出した後に、このように思うようになった。
「私は1時間後には死んでいるかもしれない、明日には死んでいるかもしれない。そして、死んだら、この肉体の人生は終わりなのだ。」
だからこそ、一日を大切にし、出会う全ての人に気持ちを伝えて生きていきたいと、そう思った瞬間に、私の人生は大きく転換した。
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私の心は、その後、こんな風に思うようになった。
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まず第一に、敬愛する人に、自分の人生を、生命(いのち)を、捧げたい。
どのような人でも出会う人には喜びを感じ、一緒に過ごせることが楽しいと感じるようになった。
大切な人に、何度でも何度でも、感謝を伝えたい。
悩んでいる人や苦しみの内にある人には、我が身を砕き、力になりたい。
弱者がいればその側に立ち、彼らの盾になりたい。
強者がいればその傍らに立ち、彼らの孤独に寄り添いたい。
自分が望まないことは、はっきりと拒否をできるようにもなった。
自分の欠点を、ゆるすことができるようにもなった。
晴れの日も雨の日も曇りの日もどれも美しく、欠けた月も満ちた月も美しく思うようになった。自然が愛おしくてたまらない。
人の心がどれもありがたく、自分の人生を、他者のために使いたい。…
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この感覚は今も果てしなく続いていて、
私は感謝と幸福を噛み締めて生きることができるようになった。
そしてこの感謝と幸福の中に生をまっとうすれば、
私の死後、
肉体と意識が滅したあとに、
もし魂(意識ではない)があるとすればー
その魂は、満ち足りた姿で、魂の世界において永続できるような気さえするのだ。
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私の最大の願いが叶わないままに絶たれた、
あの数年間の出来事は、
私に真実の感謝を知らしめるための、
神の大きな手だったのではないかと思っている。
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人間は常に死をおそれ、
世間にある、宗教の多くは、死後の世界や救済を語っている。
しかし私は、
神(かみ/大いなる意思)のようなものが存在するのだとすれば、
それは、
「死からの救済」や「死後の世界」などという価値観よりももっと大切で壮大な、
心を、魂を、私達に伝えようとしているのではないかと思う。
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最後に、C.G.JUNGの言葉を引用する。
~私の存在の意味は、生命が問を私に投げかけてきたことにある。あるいは、逆に、私自身が世界に向かって投げかけられた問そのものなのだ。そして、私はその答えを伝えねばならない。さもなければ、私は世界がそれに答えるのに依存してしまうことになるからだ。これは努力をし困難と闘ってのみやりぬける超個人的な仕事である。(ユング自伝より)~