診療情報管理士の認定試験に向けて
あと約1年と少しで、いよいよ診療情報管理士の認定試験になりました。
受験勉強はもちろんですが、社会人になってから何年も、
しっかりとした「試験」を受験してきていませんので、
試験慣れもしておきたいと思っています。
緊張したり、忘れ物したり、おなかいたくなったり、時間配分をミスったりしないように。。。
そんなわけで、来年は、いくつか資格試験を受けてみようと思っています。
受ける予定の試験は
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(1)医療情報基礎知識検定試験
(2)医療情報技師認定試験
(3)統計調査士
(4)情報セキュリティ管理士
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どれも、診療情報管理士の受験にもつながる内容だし。。。
合格が目的ではなく、試験慣れを目的として受けてみたいと思います。
でも、医療情報技師と統計調査士はできれば合格したいな。。。。
ちゃんと統計を扱える能力というのは、必要とされているので、
自分ができるようになれたら、いろいろ病院に貢献できるのではないかな。。。
ところで最近の自分の傾向と反省として、
やるべきことの優先順位がうまく取れていないなと感じます。
そこには微妙な深層心理がやっぱり影響しているなとも感じています。
優先順位がうまくとれないのは、モチベーションがうまくコントロールできていないのです。
そしてモチベーションを上手に上目にコントロールできない理由は、感謝ができていないからだなと思います。
根本的な部分に、
いつも感謝を忘れずに、意識的に刻み込んで、
ていねいに、着実に努力をし、
そして具体的で現実的な成果を手に入れ、
還元したいと思います。
勉強すること・資格をとること それ自体が目的になってしまわないように。
なんのために勉強し、なんのための資格なのか?
本質的なところをきちんと押さえてすすめたいと思います。
写真は、
先日、通勤途中に撮影したお日さまです。
きれいな空。。。。
心が洗われました。
診療情報管理士基礎過程スクーリング終了
診療情報管理士スクーリング2日目!
診療情報管理士スクーリング一日目終了
お月様を見に行こう。
感謝を知った時の話
私は以前まで、このように思っていた。
努力をすれば全ては変わっていくことができるし、失ったものは必ず取り戻すことができるし、願い続ければ叶わないことはないのだと。
しかし立て続けに起きた肉親の死が私のその考えを大きく覆すことになった。
そしてその経験に、今はとても感謝している。
今夜はその経験と、そこから感じたことを書いてみたいと思う。
*
私には幼い頃からの夢があった。
笑われそうな話だが、「いつか家族みんなで楽しく食卓を囲みたい」という夢だった。我家にはそのような心おきない家族団欒の場面が無かったからずっと願い続けていた。
そしてその願いは、必ず叶うと信じていた。
*
しかしその夢の叶わぬままに、続けて肉親がなくなり、
悲しみのあまりか私はその頃の前後数年間の記憶がところどころバラバラに抜け落ちている。
ただ覚えているのは、死後1週間程は、「どうか帰ってきて欲しい、もう一度話がしたい」と泣いていたこと。
そしてその悲しみの嵐の過ぎた後、
「もう決して戻ることはない。家族団欒の夢も、叶うことはない」とはっきりと思い知った、あの瞬間の自分の心である。
あの瞬間、私は新しい人生の一歩を踏み出した。
*
世界は、叶わないこと、戻らないことに満ちている。
そしてそれを知ることこそが、人生を感謝に導く鍵なのだと思った。
あの痛烈な体験は、私に感謝の心を刻みつけてくれた。
*
死別後の数年、私は強烈な後悔と自責の念にとらわれ、
その暗いトンネルをもがきながら抜け出した後に、このように思うようになった。
「私は1時間後には死んでいるかもしれない、明日には死んでいるかもしれない。そして、死んだら、この肉体の人生は終わりなのだ。」
だからこそ、一日を大切にし、出会う全ての人に気持ちを伝えて生きていきたいと、そう思った瞬間に、私の人生は大きく転換した。
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私の心は、その後、こんな風に思うようになった。
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まず第一に、敬愛する人に、自分の人生を、生命(いのち)を、捧げたい。
どのような人でも出会う人には喜びを感じ、一緒に過ごせることが楽しいと感じるようになった。
大切な人に、何度でも何度でも、感謝を伝えたい。
悩んでいる人や苦しみの内にある人には、我が身を砕き、力になりたい。
弱者がいればその側に立ち、彼らの盾になりたい。
強者がいればその傍らに立ち、彼らの孤独に寄り添いたい。
自分が望まないことは、はっきりと拒否をできるようにもなった。
自分の欠点を、ゆるすことができるようにもなった。
晴れの日も雨の日も曇りの日もどれも美しく、欠けた月も満ちた月も美しく思うようになった。自然が愛おしくてたまらない。
人の心がどれもありがたく、自分の人生を、他者のために使いたい。…
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この感覚は今も果てしなく続いていて、
私は感謝と幸福を噛み締めて生きることができるようになった。
そしてこの感謝と幸福の中に生をまっとうすれば、
私の死後、
肉体と意識が滅したあとに、
もし魂(意識ではない)があるとすればー
その魂は、満ち足りた姿で、魂の世界において永続できるような気さえするのだ。
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私の最大の願いが叶わないままに絶たれた、
あの数年間の出来事は、
私に真実の感謝を知らしめるための、
神の大きな手だったのではないかと思っている。
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人間は常に死をおそれ、
世間にある、宗教の多くは、死後の世界や救済を語っている。
しかし私は、
神(かみ/大いなる意思)のようなものが存在するのだとすれば、
それは、
「死からの救済」や「死後の世界」などという価値観よりももっと大切で壮大な、
心を、魂を、私達に伝えようとしているのではないかと思う。
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最後に、C.G.JUNGの言葉を引用する。
~私の存在の意味は、生命が問を私に投げかけてきたことにある。あるいは、逆に、私自身が世界に向かって投げかけられた問そのものなのだ。そして、私はその答えを伝えねばならない。さもなければ、私は世界がそれに答えるのに依存してしまうことになるからだ。これは努力をし困難と闘ってのみやりぬける超個人的な仕事である。(ユング自伝より)~
夢・無意識・心
数年前、半年ほどの期間をかけ、心理療法家の元へ通い心理分析を受けていた。それは自分自身の神経症的な性質に自覚があり自分の心を一度客観的に整理してみたいという思いと、心理分析への好奇心からだった。
最初の2ヶ月ほどのプログラムは、小さな頃から今に至るまでの自分自身の生育歴やエピソードを心理士に話すことだった。私は、心理分析を受けると自分の情緒に不測の変化が起こってしまうのではないかと恐れに似た感情を頂いていたが、この時期の自分は非常に冷静で、淡々としていて、まるで小説のあらすじを語るようにすらすらと話すことができ、そのことに安堵した。
その後、プログラムは心理検査となった。これらの検査は作業的には「どうということのない」ものである。イラストカードを見てそのイラストから想像される物語を話したり、連続する数字を延々と記憶してみたり、…良く知られているロールシャッハ・テストも受けた。これもただの「インクのシミ」のような図版を眺めて、何に見えるか話すだけなのだ。が、この時期から私の夢に、変化が現れる。非常に不気味で、不条理で、尚且つこれまで感じたことのないような深淵を思わせる夢を繰り返し見るようになった。
私はその時思った。私は今、無意識の世界のドアをノックしているようだ…。
そして何故だろう(今でも理由はわからない)そのような夢を立て続けに見るようになってから、自分の心に、なんともいえない「落ち着き」のようなものが感じられるようになった。
そのような事を重ねながらプログラムを通いきり、最終日、約束では私の心理検査・分析結果のレポートが渡される筈だった。しかし担当心理士の手元には、約束のレポートはなかった。
心理士は私にこういった。
「あなたにはレポートは渡しません。なぜならあなたは自分自身がどんな人間なのか判断しようとしすぎるからです。…あなたは自分を普通じゃないと思っているようだが、あなた自身が勝手に何が”普通”なのかその基準を決めつけて、そこから自分を評価し、自分が異常だと判断しているようです。しかし何が普通で、何が異常なのか、決められるものなどありますか?」
彼はこう続けた。
「あなたは私からすれば異常ではありません。でもあなたはあなたを異常だと評価しているのです。私がいろいろお伝えしたら、あなたはまたそれに囚われて生きていくかもしれない。ですからレポートは渡しません。
ただひとつ、お伝えしたいのは、あなたは苦労してきた。不安定な環境を生き抜いてきた。だから恋人というようなあなたにとって”大切な人”を持つことが苦手で、安心することが苦手で、無意識にそういった親密な関係性を避け、また、時に壊そうとするようだ。それはそれで構わない。それが”あなた”だからです。
しかし、ひとつだけ、あなたは、”ある力”をつけられたら良いと思います。それは、”壊してしまった関係性を修復する力”です。
もしも今後、大切な人との関係を壊すようなことをしてしまったら、謝ったり、相手の気持ちを思いやったり、自分の感情を言葉にして伝え、関係を修復をする力をつけることができたら、どうでしょうか。
あなたはあなたとして生きていい。乗り越える力をつけていけばいい。
自分のことを引き算のように考え自己嫌悪におちいるのではなく、さらにそれを乗り越える力や修復する力を持つというふうに足し算に発想することで、もっと大きくなることができます。
これで私のセラピーは終わりです。」
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その言葉から思い返してみれば、思い当たることはたくさんあった。
人間関係において、私は、最初は誰にも親しく振る舞いながらも、深い関係を避け、最終的には一人になりたがる。
心を許し合う関係になる前に、恋人や友人からも、ふと身を隠してしまうような自分があった。
しかも、自分自身でそのように振る舞いながら、「自分は孤独で理解者がいない」と思い続けてきたのである。
そして不安の中で、人を傷つけ、人の心を引っ掻くようにして生きてきたのだ。
それに気が付いたことは大きなショックであり、この心理士の言葉はその後の私の振る舞いの一つの指標となった。
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心理検査を受けている期間に繰り返し見た、不可解な夢によって、私はある確信を持つことになる。
それは、「無意識の世界はあり、それは終わりのない宇宙のような、底のない沼地のような、果てしない容積を持っている」こと。
そして、「夢は無意識の世界とのチャンネルである」という実感である。
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私は自分の心を判っているようで、まったく判っていなかった。
ましてや無意識の世界の広大さを感じれば、本当に自分とは何者で、どのように生きて行けばよいのか?分からない、難しい。
ただ一つ、私にははっきりわかる感覚が有る。
それは何か自分自身を遥かに超えた存在があって、自身はその中で赦され、生かされているという感覚だ。
私は何者なのか?
私は生かされている者なのだ。
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自然の中にいる時、限りない無償の愛を感じる瞬間がある。
梢から、木々から、淵から、風から、川面から…。
その時私は、果てし無く満たされていて、果てし無く自由な感覚になる。
自然、森羅万象、彼等にも心があるのだ。
私にそれがあるように。
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C.G. Jungはこのように自伝に記載している。
心は明らかに肉体よりももっと複雑であり接近しにくいものである。それはいわば、我々が意識するときにだけ成立する世界の半分である。そのため心は単に個人的なものにとどまらず、また世界的な問題でもあり、精神科医は全世界を扱わなければならないのである。
以前には決してなかったことだが、現今では、我々は我々すべてを脅かす危険が自然から来るのではなく、人間、個人および集団の心から来るのだということを了解することができる。
人の精神異常は危険である。
すべては我々の心が適切に機能するか否かにかかっている。
この頃では、もしある人達が理性を失ったら、原子爆弾が発射されるであろう。
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世界や現象とは心が映し出す映画のようなもので、
すべての存在は、心や意識・無意識に帰属しているのかしれない。
私とはこの肉体ではなく、
私の住処はこの地ではなく、
私は土に還るのではなく、
私とはこの心であり、
私の住処はこの意識であり、
私はこの深遠たる無意識に還るのかもしれない。