自然の生命(いのち)の力 resilience

精神科病院で働いています。診療情報管理士通教84期。五感を癒して自然治癒力を高めるセラピーについても関心があります。一人旅が好きなので、旅のことも、時折書きたいと思います。ICD10リスト&要約ブログ作成開始。http://sizen.upper.jp/icd-10/

夢・無意識・心

 数年前、半年ほどの期間をかけ、心理療法家の元へ通い心理分析を受けていた。それは自分自身の神経症的な性質に自覚があり自分の心を一度客観的に整理してみたいという思いと、心理分析への好奇心からだった。

最初の2ヶ月ほどのプログラムは、小さな頃から今に至るまでの自分自身の生育歴やエピソードを心理士に話すことだった。私は、心理分析を受けると自分の情緒に不測の変化が起こってしまうのではないかと恐れに似た感情を頂いていたが、この時期の自分は非常に冷静で、淡々としていて、まるで小説のあらすじを語るようにすらすらと話すことができ、そのことに安堵した。

その後、プログラムは心理検査となった。これらの検査は作業的には「どうということのない」ものである。イラストカードを見てそのイラストから想像される物語を話したり、連続する数字を延々と記憶してみたり、…良く知られているロールシャッハ・テストも受けた。これもただの「インクのシミ」のような図版を眺めて、何に見えるか話すだけなのだ。が、この時期から私の夢に、変化が現れる。非常に不気味で、不条理で、尚且つこれまで感じたことのないような深淵を思わせる夢を繰り返し見るようになった。

私はその時思った。私は今、無意識の世界のドアをノックしているようだ…。

そして何故だろう(今でも理由はわからない)そのような夢を立て続けに見るようになってから、自分の心に、なんともいえない「落ち着き」のようなものが感じられるようになった。

そのような事を重ねながらプログラムを通いきり、最終日、約束では私の心理検査・分析結果のレポートが渡される筈だった。しかし担当心理士の手元には、約束のレポートはなかった。

 心理士は私にこういった。

「あなたにはレポートは渡しません。なぜならあなたは自分自身がどんな人間なのか判断しようとしすぎるからです。…あなたは自分を普通じゃないと思っているようだが、あなた自身が勝手に何が”普通”なのかその基準を決めつけて、そこから自分を評価し、自分が異常だと判断しているようです。しかし何が普通で、何が異常なのか、決められるものなどありますか?」

彼はこう続けた。

「あなたは私からすれば異常ではありません。でもあなたはあなたを異常だと評価しているのです。私がいろいろお伝えしたら、あなたはまたそれに囚われて生きていくかもしれない。ですからレポートは渡しません。

ただひとつ、お伝えしたいのは、あなたは苦労してきた。不安定な環境を生き抜いてきた。だから恋人というようなあなたにとって”大切な人”を持つことが苦手で、安心することが苦手で、無意識にそういった親密な関係性を避け、また、時に壊そうとするようだ。それはそれで構わない。それが”あなた”だからです。

しかし、ひとつだけ、あなたは、”ある力”をつけられたら良いと思います。それは、”壊してしまった関係性を修復する力”です。

もしも今後、大切な人との関係を壊すようなことをしてしまったら、謝ったり、相手の気持ちを思いやったり、自分の感情を言葉にして伝え、関係を修復をする力をつけることができたら、どうでしょうか。

あなたはあなたとして生きていい。乗り越える力をつけていけばいい。

自分のことを引き算のように考え自己嫌悪におちいるのではなく、さらにそれを乗り越える力や修復する力を持つというふうに足し算に発想することで、もっと大きくなることができます。

これで私のセラピーは終わりです。」

-----

その言葉から思い返してみれば、思い当たることはたくさんあった。

人間関係において、私は、最初は誰にも親しく振る舞いながらも、深い関係を避け、最終的には一人になりたがる。

心を許し合う関係になる前に、恋人や友人からも、ふと身を隠してしまうような自分があった。

しかも、自分自身でそのように振る舞いながら、「自分は孤独で理解者がいない」と思い続けてきたのである。

そして不安の中で、人を傷つけ、人の心を引っ掻くようにして生きてきたのだ。

それに気が付いたことは大きなショックであり、この心理士の言葉はその後の私の振る舞いの一つの指標となった。

-----

心理検査を受けている期間に繰り返し見た、不可解な夢によって、私はある確信を持つことになる。

それは、「無意識の世界はあり、それは終わりのない宇宙のような、底のない沼地のような、果てしない容積を持っている」こと。

そして、「夢は無意識の世界とのチャンネルである」という実感である。

-----

私は自分の心を判っているようで、まったく判っていなかった。

ましてや無意識の世界の広大さを感じれば、本当に自分とは何者で、どのように生きて行けばよいのか?分からない、難しい。

ただ一つ、私にははっきりわかる感覚が有る。

それは何か自分自身を遥かに超えた存在があって、自身はその中で赦され、生かされているという感覚だ。

私は何者なのか?

私は生かされている者なのだ。

ーーーーー

自然の中にいる時、限りない無償の愛を感じる瞬間がある。

梢から、木々から、淵から、風から、川面から…。 

その時私は、果てし無く満たされていて、果てし無く自由な感覚になる。

自然、森羅万象、彼等にも心があるのだ。

私にそれがあるように。

ーーーーー

C.G. Jungはこのように自伝に記載している。

心は明らかに肉体よりももっと複雑であり接近しにくいものである。それはいわば、我々が意識するときにだけ成立する世界の半分である。そのため心は単に個人的なものにとどまらず、また世界的な問題でもあり、精神科医は全世界を扱わなければならないのである。

以前には決してなかったことだが、現今では、我々は我々すべてを脅かす危険が自然から来るのではなく、人間、個人および集団の心から来るのだということを了解することができる。

人の精神異常は危険である。

すべては我々の心が適切に機能するか否かにかかっている。

この頃では、もしある人達が理性を失ったら、原子爆弾が発射されるであろう。

ーーーーー

世界や現象とは心が映し出す映画のようなもので、

すべての存在は、心や意識・無意識に帰属しているのかしれない。

私とはこの肉体ではなく、

私の住処はこの地ではなく、

私は土に還るのではなく、

私とはこの心であり、

私の住処はこの意識であり、

私はこの深遠たる無意識に還るのかもしれない。

f:id:ssizen:20140904183106j:plain

月へ行けたなら

最近、良いこともつらいことも一気に押し寄せてきて、心がとてもざわついていた。

落ち着かせようとしても、落ち着かない。心を見つめてみても、とらえどころなく変幻してしまう。

こんなときに心を見ると、どうしても自己嫌悪がまさってしまい、苦しい、困惑のまま数日を過ごしていた。

夜には眠れなくて、何度も目をさまし、途方に暮れた気持ちになる。

まるで自分の未来すべてが、闇におおわれてしまうように不安で、そんな自分が情けなくて自分自身を責める内に、さらに心は行き場を失っていくようだった。

 f:id:ssizen:20140815181538j:plain

今朝職場に到着しても、まだ心はざわつき、いつものように仕事がはかどらない。

しばらく悩んだ後に、私はふと思い立って、

「今日は一人でできることをしよう」と考え、

前から作りたいと思っていた院内用の小さな統計管理システムの開発構成づくりに手をつけた。

ひとり、もくもくと構成を起こしている内に、やがて夢中になっていた。

構成がすんで、簡単なモックを創るうちにさらに気持ちは膨らみ、熱中していた。

そしてふと気が付くと、心のざわつきが嘘のように消えていた。

ーーーーー

私はいつも葛藤している。

ひとつのことがうまくいくときは、べつのひとつのことを失うことかもしれない。

ひとりの人とよろこぶときは、べつのひとりが悲しみにあるかもしれない。

決断をもとめられるとき、自分の意思を通すなら、誰かにとってはその人の意思にあわないことになるかもしれない。

頭の中はすっきりしない。ひとつひとつの事が、とても重大で複雑に思える…。

ーーーーー

昨夜、ひとり部屋で、様々のことを思い出し、心が押しては返す、波のような時の中でふと、祈るような感情を覚えた。

その時、遠くから花火の音がした。その音は遠雷のようにやさしく低く響き、私の心は満たされて行った。


そして私は考える。

私は一体、何なのだろう?

私は私の人生を、きちんと漕げているだろうか?


不安になるのは、過去をひきずって生きているから。私の「現在」の前には、未来ではなく、「過去」が置かれてきた。

まるで月へ向かうスペースシャトルのように、この影から離陸してみたい。悲しみや苦しみを、赦してみたい。

そして月から私を見たら、私はどんな姿をしているだろうか?

ーーーーー

何かをつくっている時はとても心地がよい。何かをつくっている時、私の心は救われている。

自分というのはとても不可解で、語れば語るほど触れれば触れるほど姿をうしなう霧のようだ。

それでも私は私を知りたい。そして誰かを知りたい。

そして私は私に言いたいのだ。

この道の先にあるのは未来だと。


ーーーーー


霧の中を泳ぐように、

また私の1日が暮れていく。


f:id:ssizen:20140815202320j:plain


越生探訪/秋津町祭囃子保存会

週末・月曜日は、気の向くままに田舎に出かけたので、そのことについて書きます。
 
ーーーーー
週末に足をむけたのは越生。
山並みをながめながらドライブしていると突如豪雨があった。
近くにちょうど「越生自然休養村」というところがあったので、車をとめて珈琲を飲んだ。窓から外を眺めていると、山に何度も雷槌が光り、あっというまに路面は水にひたされ、休養村の雨樋からは雨水が炸裂していた。
 
f:id:ssizen:20140728115622j:plain
 
休養村の店内には、ご高齢の男性が何人かいた。
大変な豪雨にもおおらかで、語り合うところには、
「これだけ降ると気持ちが良いね」
「おれの車もこれでキレイになるのう」
「帰りがおそくなるからまたかあちゃんに怒られるな」
「降ってくるのが灯油だったら、桶にでもためておいて使うのにのう」
と、口々に、皆さまのんびりしたものだった。
私も雨を眺めながら、気がつけばとてもリラックスした気持ちになっていた。
 
雨は20分もすれば止んだ。
山から霧が立ち上って美しい。
 
f:id:ssizen:20140728115639j:plain
 
雨が落ち着いたので、車に乗り移動。
山の中にある「山猫軒」というカフェに入った。
宮沢賢治の「注文の多い料理店」のような鬱蒼としてメルヘンな建物は、
ご主人がセルフビルドで建てられたとのこと。
 
f:id:ssizen:20140728115746j:plain
 
カフェの入口のドアは、金属製のアートで山猫の顔をしている。
 
f:id:ssizen:20140728115726j:plain
 
店内はゆったりとしていて、グランドピアノとたくさんのスピーカーがありコンサートができるようになっている。エントランスや2階、1階の壁面には絵画等が飾られているギャラリーになっている。
心からくつろいだ時間を過ごした。
 
f:id:ssizen:20140728115710j:plain
 
ーーーーー
 月曜日は、東村山地方の秋津神社で、
市の無形民俗文化財指定の祭囃子を観た。

夜の祭りの灯りの中で、おおらかで朗らかな囃子が繰り広げられ、子どもたちは無邪気にはしゃぎ、大人たちも皆楽しそうに笑っていた。

私もすっかり夢中になって、祭り囃子を楽しんだ。昔から日本人は、お祭りでこうして楽しい時を過ごし、心の澱を払ってきたのだろう。

秋津神社につどう人たちは皆やさしくて、ゆずりあって囃子を観ていた。子供同士が「見えないからおたがいにだっこしよう」といって、チビどうしで抱っこしながら舞台を覗き込んだり、子どもが子どもを肩車したり。

小さな神社の小さなお祭りは、あたたかくてとてもすばらしかった。

f:id:ssizen:20140729044605j:plain

f:id:ssizen:20140729044124j:plain
 ーーーーーーーーー
 
また出かけよう。 

うきわ/深夜便/ニトロちゃん/インザプール


なにをしている時間がいちばん好きか?と言われたら、本を読んでいる時間です。ひまさえあれば本屋へ行き、ちょっとでもお金に余裕があると本を買ってしまうのです。

f:id:ssizen:20140723223329j:plain

今日は、最近読んだ軽めの漫画&小説をすこしご紹介させていただきます。

#「うきわ」野村宗弘

不倫されているもの同士が、社宅の隣同士の部屋に住んでいる縁で、お互いの距離をはかりつつ悶々とする・・・だけの漫画です。
でも、なんとなく読ませるものがあって、何度か読み返しました。
理由は、独特の、しっとりした間合いと、絵柄の魅力・・・特に主人公の女性がとても憂いを含んだ体温を感じさせる表情で描かれているところにあるように思います。

f:id:ssizen:20140723223313j:plain
f:id:ssizen:20140723223348j:plain
f:id:ssizen:20140723223411j:plain

主人公の女性も、女性が思いを寄せる隣室の男性も、影があってはっきりしなくてウジウジしていてめんどくさいです。割り切れない問題を抱えた男女が、純粋な恋愛でも欲望でもなく、互いにただ膿んだ日常の閉塞感からさまよいでようとする、うろんなムードが巧みに描かれています。

#「深夜便」桜玉吉

玉吉さんの生存確認の気持ちで買いました。あいかわらず、見事なダメオヤジでした。良かった、良かった。
こんなことばっかり考えて、こんなことばっかりして、こんな漫画ばっかり描いている玉吉氏に乾杯。という気分になります。

f:id:ssizen:20140723224859j:plain
f:id:ssizen:20140723224913j:plain

あいかわらず、作風はあきらかにつげ義春を意識していますが、玉吉さんの漫画からは気の良さとある種の健全さ、外向性が感じられます。


沖田さんの本は何冊か読んでいますが、いつも胸が苦しくなります。なかでもこの「ニトロちゃん」はそうでした。
発達障害があり、周囲に適応できず、とくに教師との関係で深い悩みと傷をかかえる「ニトロちゃん」。彼女が生きる世界はあまりにも過酷に思えます。
男性教師から暴力を受け続け、トラウマ的な症状が出てしまう彼女はとてもかわいそうで、痛々しいです。
f:id:ssizen:20140723225820j:plain
読んでいて感じたのは、
彼女が発達障害とか、そうでないとか、そういう問題じゃなく、
そもそもこういう教師からのひどい暴力行為が黙認されている教育現場があるということの問題でした。

#「インザプール」奥田英郎

f:id:ssizen:20140723230650j:plain
面白い面白いと聞いて読んだけれど、
あんまり面白くなかったかな。
あやしい精神科医伊良部先生が、はちゃめちゃな治療?をする小説です。
全体的に、あざとめ。
でも通勤時に読むにはすごくいい本でした。
一話が短いし、文体のテンポがリズミカルで読みやすい。
気楽に読めるし、読み終わった後は気楽な気分になっています。
気乗りしない会議のある朝に読むにはおすすめです。

そんなこんなの、
最近の軽めの本の感想でした。

クーラーいらずの過ごし方

私は、クーラーの冷たい風が苦手で、
自室にはクーラーを設置していません。
でも、真夏でも結構大丈夫で、
例年、扇風機一台で乗り切っています。

私の住んでいるところが埼玉の田舎で、そもそも東京より涼しいのもあるとは思いますが、
ちょっと過ごし方の工夫もしています。
以下、している工夫を少し記載してみました。
ーーーーー

【扇風機にアロマリボン】

扇風機に、リボンをくくりつけます。
このリボンには、
お気に入りのアロマオイルを染み込ませておきます。
私は、ゼラニウム、ラベンダーなどが好きです。
扇風機をまわすと、風とともに良い香りが広がり幸せです。暑さも少しまぎれます。

【部屋の窓、ドアを開放】

部屋の二箇所にある窓と、部屋のドアを開放し、風通しを良くしています。
部屋のドアは夏はほとんど閉めることはなくて、
薄い生地のノレンをドア代わりにしてあります。(玄関ドアは、もちろん閉めています)

【カーテン、ノレンに清涼アロマスプレー】

霧吹きにミネラルウォーターを入れ、そこに、ユーカリオイルかハッカ油を混合し、
それを部屋のカーテン、ノレンに吹きかけ、
室内を対流する風から清涼感を感じることができるようにしています。

【室内に、物を極力、置かない】

室内に物をあまり置かないようにし、
フローリングを清潔に磨くと、
風がよく通り、
床からはひんやり清涼感を感じられ、
快適です。

【寝る時はアイスノン】

寝る時は、
頭にアイスノンを置くことで、
寝苦しさをほとんど感じなくなります。
枕元には麦茶も置いておき、
夜中でも喉が乾いたら飲みます。

ーーーーー

クーラーを使わない方が、
秋に体調を崩さずに済む実感があるので、今年もこんな感じで乗り切ろうかと思っています。

・下の写真は、内容と全然関係ありませんが、最近食べて美味しかったもの。アボカドの冷製パスタと、フルーツタルトです。夏は、パスタが一層美味しく感じます。

f:id:ssizen:20140713000754j:plain

f:id:ssizen:20140713000815j:plain

夜を越える


夜というのは、
とても大切な時間で、
夜の過ごし方で一日の価値が決まるような気がしている。

だからできるだけざわついた気持ちで夜を終えてしまわないように、工夫して過ごす。
私は、寝る時に、心が荒れていると、
翌日も一日、気持ちが荒れてしまうことが多いのだ。

そんな私の夜は、
ありきたりだけど、
小さな間接照明と、
アロマポット、
そしてお気に入りの本と共に過ごす。

小さな照明は、目を休めてくれて、
アロマは嗅覚をリセットし体をリラックスさせてくれて、
お気に入りの本は心を満たしてくれる。

そして、まどろむようにゆったりと眠れたら、
短い睡眠時間でも、
翌朝、
心身ともに良い状態で目覚めることができる。

自分を責める、自分を傷つける、
自罰的な私の内面は、
夜の中に許されて、愛を求め始める。
私はそんなに強くない。
誰かとつながりたくて、だけど一人になりたくて、
揺れながら夜を旅している。

「幸せって何だろう、どんな時に幸せを感じるだろう」

と、今日、ふと考えた。
そして、
私は、
自分の周りの人が楽しそうなとき、幸福そうなときが、一番幸せだなと思った。

そのためにできることを見つけたい。
そのための私自身を、築き上げていきたい。

野の花みたいに生きていきたい。
もしくは無垢な鳥のように。
まるで生きているだけで全てが満ち足りているような姿になれたなら。

そんな風に夢見るようにして、
今夜また一つの夜を、
私は越えて行く。

f:id:ssizen:20140706233741j:plain

精神科の入院形態、など雑感。


精神科の他科と違い特徴的なものの一つが、入院形態という概念だ。
精神保健福祉法心神喪失者等医療観察法などの関係法規によって、入院形態が定義されている。
入院形態は、大きくわけると、同意型の入院と非同意型の入院にわけられる。

同意型(任意入院)は患者さんが自分の意志で入院していて、退院したいと思えば原則的に退院できる。

非同意型入院にはいくつか種類がある。医療保護入院措置入院、応急入院、鑑定入院など。
患者さんが入院の意志がなかったり、入院の必要性が理解できなかったりしても、法に基づいた基準、手続きを経て、入院治療を実施することができる。
また、退院も患者さん本人の意向だけでは原則的にできない。

非同意型入院が必要とされたケースとしてわかりやすい例として、吾妻ひでおさんの著書「アル中病棟」の、入院にいたる描写が参考になると思う。
f:id:ssizen:20140628230025j:plain
吾妻さんは、アルコール依存症であり、この時には、依存により生じた幻覚妄想による夜驚、自殺企図、交通事故やケガ、親父狩りの被害にあうなど、危険な事態が続いても飲酒をやめられず、病状が深刻で本人の安全を本人が保つことができない。生命に関わる状況であると言えそうだ。
当然仕事もできておらず家庭には不穏な気配が満ちている。まさに底付きの状況である。

親父狩りにあった後、
恐らく、以前から病院に入院相談されていたであろうご家族が、
酩酊状態の吾妻さんを強引に病院に連れて行く。
f:id:ssizen:20140628230953j:plain

吾妻さん本人は、この時でさえも飲酒への強いこだわりを示し、入院に抵抗する。
そこで、ご家族同意のもとの強制入院となったようである。
そしてここから、吾妻さんはアルコール依存症治療を経て断酒の意志を獲得され回復を歩まれて行く。

精神疾患の症状では、
患者さん本人が生きる意志や回復への意志を持ち得ることができなかったり、自分や他者を傷付けたり損なうような行動を続けるような状態を呈する場合がある。
その状況を脱し、ふたたび、生きることについて考えていくために、
患者さんの生命と権利を保護するために、非同意型の入院形態がある。
とはいえ…患者さんご本人のお気持ちに立てば、非同意型の入院に、そういった前提では納得できない苦痛や屈辱を感じられた方もいらっしゃるだろう。

最後に、吾妻さんの大変な苦しみが生々しく描かれた、一節を紹介する。

f:id:ssizen:20140629011455j:plain
f:id:ssizen:20140629011857j:plain
f:id:ssizen:20140629011523j:plain
f:id:ssizen:20140629011535j:plain

弱さは罪ではない。弱さは敵ではない。
なぜならそれも自分自身だから…。
ただ、自分の弱さから目を背けずに、
そして自分の弱さと戦うというよりは、
それを"乗り越えて"いけたら素晴らしい。

そんな風に思う。